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Ⅲ.世良田の系図さて、徳川氏が藤原姓を持った経緯は、こんな感じ。いわゆる前系図までの話。ですが、急所となるのは、そっちじゃないですね。 本当の目標は… 藤原姓から『源姓に改姓』し、『源氏長者』を取得。ついでに『征夷大将軍』も同時に取得する事。 …でしたね。前章も長すぎて、すっかり忘れそうでしたが;; と言う訳で、源姓に改姓する為には、単純に そのままの前系図を使う訳には行きません。確かに、前系図は源姓の系図ですが、一度 藤原姓に替えてしまってます。つまり、もう一度源姓に戻そうとしても、復姓には復姓なりの根拠が必要となります。前回は前系図が途中で『徳川氏』に変更したのを利用して藤原姓に改姓したワケです。と言う事は、仮に この前系図を源姓に戻すには、『徳川』を捨てる必要が有ると言う事です。別に制限は無いですが、家康は『徳川』となってから ココまで来た訳で、天下人目前の家康として、『徳川』が世間で既に定着されてしまってます。それに 何度も変えると 他の各大名に対して信用が置かれなくなってしまうと思います。また、現時点で家康は日本国王になろうとしている訳です。藤原姓へ移行の際は、どんな系図を使おうが、とにかく姓を持つ事が出来れば良い。と言う段階でした。所詮、従五位下です。ですが、今度は周辺環境が全く違います。 現時点で、朝廷階位官位は『正二位内大臣』であり、形式上日本公家界ではトップ2の位置。秀吉が死去している以上、実質 日本一の実力者であると言う事。武家としては『左近衛大将』を持っていましたが、今更それでは『日本の武家を統括』と言う転換に於いて 前後の差を付けられる状態では無かった為、更に武家の棟梁として別の称号が必要となり、『征夷大将軍』を取得すべきであると言う事。公家の統括ともなりうる『源氏長者』の称号を貰うと言う事。ついでに2つ同時に貰うと言う、史上初の試みをすると言う事。…どちらにしても、前系図の様な訳の分からない源氏系図は使えないワケです。ただ仮に、既に この位置にいる人間ですから、前系図を使っても朝廷は通す可能性も有ったと思います。よってコレは、朝廷側の意向を飲みつつも、家康の周辺環境の致し方無さによる問題が多分に有ったと言う事です。 もしかしたら、前系図は正確に源氏の先祖を有していた系図だったのかも知れないです。が、原図は鼻チンと化し、また系図的にも公家源氏系の系図では無かったのかとも思われます。確かに実的には、武家・公家の双方を抑えたい家康ですが、やはり徳川氏は武の実力によって、この位置まで上り詰めたと言う事を 朝廷にアピールすべきですし、それが世論の認識ですし 周辺環境に向けた常套です。当然ですね。よって、前系図を使うのは、この立場の人間としては貧弱過ぎると言う事になり、新たに武家の源氏系図を探して、そこに存在する『徳川氏』で無ければ形が付かないと思います。この辺の雰囲気は、前系図の時に朝廷との やりとりで、家康が学習した部分も多かったんではないかと思います。コレ以降の話は、前系図直後なのか現系図直前なのか…家康が どの辺から源氏系図を意識したのか定かでは無い曖昧な領域です。その辺を、頭の片隅に置いといて頂きたいと思います。 んな経緯で とりあえず源氏系図を探し始めます。探しますが、武家源氏の系図と言っても、無茶苦茶 沢山有る訳で、何が自分に相応しいのか、ソレの見極めが非常に難しい話です。多分、色々な理由がココに存在したのかも知れません。けど、それは分かりません。ただ、結果的に見れば…と言う話にしたいと思います。 松平氏の英雄、家康の祖父『清康』は源氏を称し、名を『世良田次郎三郎清康』と言う。 …そーです。もう一度、松平氏の歴代表を出しますね。
家康の おじいちゃんに『松平清康』がいます。オヤジの信忠は アホだった為、早々と隠居を喰らい、清康が その後 家督を継ぎました。13歳の時です。その後、代々 西三河に留まっていた松平氏の領土を一気に東三河にまで広げ、松平氏初の三河全土を治めるに至った英傑です。更に尾張の織田領にまで進出しようとしていた最中、家臣に殺されます。松平氏の関係に興味の有る方なら知っているかもしれません『守山崩れ』と言うヤツですね。享年25歳。この人が生きてたら、一気に尾張に進行、織田信長は家康の家来になってたかも…すごぃ…と、終わった事を 語るのは止めましょう。 とりあえず、そんな人です。で、この『松平清康』が、源姓であり『世良田』を名乗っていたと言う話です。ココで矛盾なのが、松平氏には姓が無いから、家康は躍起になって藤原姓を取得したんです。ですが、おじいちゃんは源姓だと言ってます。コレをどう捉えるか…は後述する事にします。とにかく、結果をみれば、ココが家康にとって大事な所です。『世良田』と言う源氏が存在したと言う事。過去に自分以外で源姓を名乗っていた先祖がいたと言う事。つまり、ココを利用すれば、つじつまを合わせるに あまり面倒を掛けずに済むかも知れません。あとの問題は、その世良田氏と言う源氏が、ハスッパでイイ加減な源氏で無いかどーか、っつートコです。前系図の様な源氏系図では意味が無いんですね。それでソコを調べた訳です。そして出てきた答え。 清和源氏-源義国系-上野源氏義重流-新田氏族-世良田氏 …長いですね;とりあえず系図の流れ的には、 …にいる、『世良田氏』です。第Ⅰ章で出てきましたね、あの新田源氏の『世良田氏』です。清康の放言で無ければ、また、後世での改竄で無ければ、世良田と松平を結びつけるポイントは、この清康となります。そして、松平系図はメチャメチャな嘘だらけの系図である事を示唆しているポイントが この清康でもあります。さておき…『世良田氏』であれば、第Ⅰ章で書いた通り、ハスッパな源氏では無いですね。鎌倉末期、足利氏と共に源氏の双璧とされた新田氏の半惣領となった氏族です。かと言って足利系でも無い以上、著名と言う訳も無く改竄のしやすさもイイ感じです。家康にとっても申し分の無い系図と言えると思います。と言う訳で、コレにしましょう。と言う訳で この系図獲得に向けて…さぁ、どーしましょ?清康が言っている『世良田氏』とやらの 系図の原本はドコにあるんでしょう? 第Ⅰ章でも書いた通り、『世良田氏』は 新田義貞と共に負けて世良田政義の代で途切れています。政義の娘が残っていたそうですが、義貞の息子と結婚し、子・孫の代で足利方に捕まり打ち首。孫の中でも生き残った一人の、その息子が 世良田の跡を継ぎ真船氏を称しました。よって、世良田の本流は残っておらず、この分では たとえ真船さんとやらを探しても世良田系図なんて残っていないと思います。また この時点で、系図の大辞典『尊卑分脈』は存在してました。でも、それは手の付けられない所に保管されていたんですね。そーです、朝廷です。と言う訳で 結局 手詰まりです。困りました。 と言う事で、話を変えます。西暦1549年。まだ織田信長が健在な…と言うか、まだ尾張一国の領主であった頃の話です。この頃 家康は、今川氏に人質にされるはずが、まかり間違って織田氏の下に連れて来られてました。そんな折、人質をネコババされてしまった今川義元は怒って、今川家随一の知略家:太原雪斎を尾張攻略に派遣します。丁度その頃、尾張と今川領の間である三河松平氏当主:松平広忠は死去。次の当主:家康は織田の人質のまま。こんな主君のいない空白の三河では どうにもならず、太原雪斎は難なく松平居城:岡崎城を接収、続いて安祥城を攻略します。この城で信長の異母兄弟:織田信広と、織田方の武将:吉良義安が捕まります。 この時 家康は今川に捕まった信広と人質交換され、今川氏の駿河に連れて行かれる事になります。吉良義安は織田方の武将と言うよりも、三河の武将です。と言う訳で、幼い家康くん と供に、駿河へ向かいます。こうして、家康の駿河での人質生活が始まる訳ですが、その時の世話係・教育係の一人でもあったのが 吉良義安と言う人です。この義安と言う人は、三河の武将ですが、一応 身内でもあります。先ほどの松平清康の妹で、後に『俊継尼』と呼ばれる人の旦那さんです。と言う事で、系図をそのまま見ますと、家康の おじいちゃんの義理の弟と言う存在になります。「系図を そのまま~」と言いましたが、この辺は後に回します。また、家系図 清和源氏 9になりますが、吉良氏と言うのは コレも源氏で、系図的には今川氏を分家とした宗家に当たる一族です。つまり、駿河の大名今川氏は吉良家から分かれた分家と言う関係になります。が、戦国時代に そんな本家分家のパワーバランスなんて通用する訳も無く、分家の今川は大大名、宗家の吉良は一武将…みたいなモンですかね。 とにかくそーゆー関係の家康と義安です。ですから、その教育方針も手に取るように分かります。この時の三河は辛うじて松平氏でしたが、吉良義安の義理の兄:松平清康の頃は三河一国を治め、尾張にまで侵入しようとした実力のある大名クラスです。義安は、その一族である義理の弟でしたが、あくまで義理の弟です。同世代の義安としては、やはり嫉妬心が大きかったでしょうし、歯がゆい思いも多々有ったと思います。そこへ、その孫:家康との同伴生活です。現時点で地に落ちた松平氏の幼い当主に対し、今迄の鬱積を晴らすが如く嘲笑いたくて仕方が無かったはずです。で、優越感を得る最良の方法…と言うより、吉良氏の長所を徹底的に仕込んだと思います。つまり、松平氏には無く、吉良氏に存在するもの…血筋ですね。当時の源氏の嫡流と言われたのは、当然源氏長者を取得していた足利氏です。その足利氏から直接分家したのが、この吉良氏です。コレは松平氏の人間にとっては、対抗出来る余地が全く有りません。切々と家系の尊さを語り、切々と自分が名家で松平は田舎侍で有る事を、とにかく切々と説いていたはずです。吉良氏が松平氏に対し優越感を得る事が出来る部分はコレしか無いですから。そんな洗脳に近い、教育とは言い難い教育を受けていたと思われる、幼い家康くんでした。まぁ、そればかり全部が全部では無いでしょうが。そんな悪い事ばかり言ってると呪われそうなんで…家康の元服に立ち会ったのも、この義安です。 時は経ち、家康も自立。信長の全国制覇を同盟国として支えていた頃、西暦1580年前後の話。信長が安土城を築城していた頃ですね。家康は三河と遠江を領有、西は 信長が領土を近畿全土に拡大していて、西の憂いが全く無く、東は武田氏が残ってましたが、この時 武田の当主は信玄の息子:勝頼。武田信玄と言う脅威が無いだけでも一安心と言う所です。そんな折、家康は趣味の鷹狩りに出かけたそうです。そこで 先の『俊継尼』に出会いました。吉良義安の妻、祖父 松平清康の妹です。彼女は一人の男の子を連れていました。吉良義安の息子です。コイツの父親には、散々 血筋の嫌がらせ教育を受けたであろう家康でしたが、俊継尼の手前でもあり、また 義安は元服にも付き合ってくれたと言う経緯もありで、旧所領を与える事にしました。名を『吉良義定』と言います。 さて、この吉良義定ですが、後に家康が江戸幕府を開いた頃、突然『旗本』の地位が舞い込んでいます。家康の家来としてはコレと言った功績も無く、単に昔の知り合いの息子さん程度の人間です。それが突然の『旗本』です。不思議ですね。またその子供は『高家』に列してます。『高家』とは、家柄が顕著に高い家系が抜擢される地位です。それこそ戦国時代の生き残りである織田・武田・今川・前田・大友と言った著名な旧戦国大名の武家、日野・中条・戸田・六角・大沢などの元々格の高い公家と言う そうそうたるメンバーの中に吉良氏が組み込まれました。…ハッキリ言いましょう。場違いです。戦国時代では たかだか三河の田舎城1つ持ちの下級豪族。吉良を組み込むんなら他にも全国で100家以上は同様に組み込むべきです。 そもそも織田・武田辺りと一緒に肩を並べてると言うだけで図々しい事 この上ない話です。吉良氏にとって唯一の優越感は、血筋だけ。確かに今川と同族の清和源氏ですが、他の公家と比較したら そんなモノは吹き飛んでしまいます。 …そう、やっぱり 場違いな筈なんです。更に義定の孫は『高家肝煎』にされています。要は 『高家』の筆頭です。もうココまで来ると変です。ところでこの 吉良義定の孫は、吉良義央と言います。吉良上野介と言った方が分かりイイですか?あの『忠臣蔵』の吉良です。そして、浅野内匠頭との いざこざの原因は この高家問題が根底に有ります。こんな騒動に発展してしまった話…と考えれば、吉良が高家として存在していた事 自体の異常性が掴めると思います。 また、もっと不思議な家が登場します。葵の御紋の話を覚えてますか?葵紋を旗に付けていた為に、江戸の みんなに土下座されてビックリしてしまった人。そーです、『由良氏』です。ココも高家に加えられています。ついでに同族の『横瀬氏』も。彼らは確かに新田源氏です。ですが、先に言った通り、そんな連中を一つ一つ組み込んで行ったらキリが有りません。にも関わらずです。この偏りは、一体ナンなんでしょう? 家康の幼少の時の教育係、吉良義安は散々家康に対し、血筋の優秀性を切々と説いていました。家康は この時の事を覚えていたのか、どーなのかは分かりません。ですが、吉良氏は家系図 清和源氏 9でも分かる通り、源氏の二大流派:足利・新田と然程離れていない位置取りでした。また、今川氏での人質の時分に 幼い家康へのイジメに必至で、血筋については当然 自分でも かなり勉強していたはずです。家康への嫌がらせ…それがその時の義安の生きがいだった筈ですから。また、血筋に関しては今川氏も同様です。足利氏に準ずる家系として こちらも血筋や家系に関する資料は豊富あったと捉えるべきです。つまり、足利・新田系の系図に関して、後生大事に持っていた可能性が高かったと思われます。よって 案の定、家康は 先程で手詰まりだった世良田氏の系図を、家臣となった吉良義定に探させます。こうして世良田系図が見つかったんですね。家康はソレを吉良義定から買収。早速系図作りに取り掛かります。 吉良義定は、徳川の家臣になってから ある時期に吉良一族の菩提寺として『華蔵寺』と言う寺を建立しています。吉良義定の唯一の実績はソレだけです。それにしても、たかだか一介の下級家臣が寺を建立するなんて、そんな余力が有ったんでしょうか?それを考えると、この時の買収で得たものか、吉良菩提寺建立の出資を家康に系図を渡す交換条件としたか、後に旗本や高家に列席されている事を考慮すれば、まだ他の可能性も出てきますが、とにかく 恐らくは この直前に、系図の買収がされたと考えられます。この『華蔵寺』の建立が、西暦1600年。丁度、関が原の戦いの頃ですね。 と、ここまでで一応徳川家康に関する2本の系図と権威工作について辿る話は一応軽く流れを終わらせたので、一度ここまでの話に言い訳を付けたいと思います。と言うか、ココまでに関する事の ぶっちゃけ私の本音を…今更だとは思いますが。だってここまでの話は『藤姓徳川系図が、もし本当に存在していたら?』の想定で書いてきたわけですから。それでは些少ですが 本音を…家康の実の部分だけから見える、『系図に拘った本当の経緯』について。 やれ源氏だ、やれ征夷大将軍だ 国王だ、やれ系図だと、散々書いてしまいましたが。実のところ 家康に とってはね、それ自体には別に拘る必要も無い、どうでも良いモノだったのでは?と思っています。視点が変われば、平氏でも藤原でも良いし、官職だって極端な事を言えば、別にどれでも良かった筈です。それに、パズル合わせの様な系図も作る必要が無かったんです。天下取りの順番が自分に回ってきて、戦国の世を自分の時点で終止符にしたい。その思惑の為に、家康自身が照準を合わせたもの…それが たまたま 源氏や源氏長者であり、征夷大将軍でありと言ったモノだっただけだと思っています。いえ、決してこれらのモノに 全く権威や説得力が無かったのだと言う訳では有りませんが。 でもね、違うんですよ。これらは再構築されたんです、他でも無い『徳川家康』に。征夷大将軍の宣下を受けた徳川家康…彼自身、宣下を受けた時点では「征夷大将軍にどのような権威を持たせるか?」なんて事を、実は まだ何も考えておらず、むしろ、今後 自分が持つ権限を全て「征夷大将軍の権限にしてしまえ」的な、あとづけ感覚だったと思います。現時点で形骸化甚だしいモノを、わざわざ 強力に再構築した。征夷大将軍の絶対的な権威化・源氏長者の普遍的な象徴化・家系図の学術的な根拠化…この包括。彼によって再構築された これらは一体何を意味するか?それは既存・既知への甘受・許容…彼にとって必要だったのは「古来から そうだった」や「昔から決まっている」と言う印象操作と、その相乗効果への期待。端的に この点だったんだと思います。天下取りに最も近かった頃の家康が考えていたのは、世襲制&親族・譜代重視の安定した政権と言うのが、古来から当然であったかの如く 日本国全ての人々を甘受させる為の画策であり 構想です。それを具体的に運用して行く為に、これらのアイテムが たまたま都合が良かっただけだったんだと思います。家康自身がそのアイテムにわざわざ具体的な権威を強制的に印象操作した事で、彼は政権運用に相乗効果を得られると確信した末の結果。後世に残されたのは、実態経緯に懐疑的な説得力の無いアイテムだけが残ってしまった…と言う所が正論だと思っています。 ではこのアイテムの中でも、とりあえず『系図』だけに特化してみます。先に書いた通り、本当に系図が時系列として出来上がっていたと確信が持てるのは、2本の系図のうちの片方だけなんです。つまり、先の 吉良から買収した『源姓徳川』の方だけ。藤姓系図は、未だ実態が不明なんです。ですから 先程までの あの系図に触れていた話は、存在自体が史実ならば、その様な感じだと言う想定の元で書きました…結果が鼻紙ですし。そもそも、系図の必要性を家康が感じたのは、豊臣秀吉の晩年を見て痛感した部分から影響を受けていると思われ、であるからこそ 系図を作ると言う意欲に駆り立てられたモノなんだと思います。 系図の必要性とは何だったのか?単純に書きます。先程『豊臣秀吉の晩年を見て痛感した部分から影響を受けていると思われ』と言いました。豊臣秀吉は武力で天下統一を果たしました。彼が武力で治めたのは、まずは天下統一を認識させる『領土』です。日本には目に見える治世として もう一つの存在『朝廷』が有り、その支配も必要となります。そこで秀吉は『関白家の養子に入り、関白職に就く』…まぁ、これも反対する者はいないでしょう。天下統一するだけの武力に逆らえる者などいやしませんから。この二つを治め、これで一件落着…とはならないんですね。この二つは、あくまで天下統一の目に見える部分…表の顔に過ぎないと言う事です。 公家の養子となった秀吉…これは、一般に行われている養子形態です。養子は公家界でも頻繁に行われていましたから、それ自体に問題は有りません。ですが 秀吉の養子入りは、公家界の養子入りとしては特殊中の特殊なんですね。公家界と言うのは重厚な血統主義です。公家の養子は、たとえ養子の事実を除外して実父系のみを明示させても源平藤橘の祖に辿り着く事が、ほぼ可能なはずです。近世までと言う条件を付けて良いのなら、他の血統を根拠としている数例を除き、確実に辿り着けます。 『父系だけでも家系図の流れは、ある程度作れる。』この様な認識で当サイトの系図は、一般的に表現されている家系図の様な養子関係の混入を なるべく排除し、実父系の系図に構成する様、意識してはいます。 …話を戻し。つまり公家界では、いくら養子とは言えど、そこには必ず その家に入る暗黙の条件として明確な『歴史を持つ父系血統』が存在しており、当然ながら農民出が公家養子になる前例など皆無です。よって公家衆は本音の所では『関白家の養子:豊臣秀吉』を認めていないんですね。武力であり、財力であり、権力であり、その様な権勢をこの時点で全て持っていた秀吉だから、その表向きのみを認容していたに過ぎません。これは秀吉も察しており、負い目を感じていた所だと思います。朝廷に利用されている…その被害意識も強かったでしょう。 そしてもう一つ、武力による天下統一。全国の大名を従えた秀吉ですが、これはあくまで表向きの従属が大半です。そもそも秀吉は織田信長の家臣でしかなかった訳であり、信長の逝去に際し、信長嫡系の三法師の後見人として存在していたに過ぎません。のちに武力で天下統一した秀吉ですが、そのきっかけはあくまで、血統重視な存在が有ったればこそ、織田家家臣を取り込めたと言う前提があります。つまり、武力で天下統一した秀吉も、どこかに血統に対する負い目を持っていました。 血統主義…そう易々と表に出てくるものではありませんが、血統の裏付けが無い者は、いつまでも苛まれ易く付きまとう厄介な代物です。天下統一を果たした秀吉ですが、血統の裏付けが無く 世の表舞台に顔を出してしまった彼の持っていた負い目は普通の人間の比では無かったと思います。そしてその負い目の塊をブツけた矛先…それが朝鮮出兵です。それまで、農民出であろうとも、少なからず血族が残されていた秀吉は、ソコに頼っていた部分が有りました。もしかしたら、そこから何かしらを構築しようと思っていたのかも知れません。が、母の大政所、妹の朝日姫、弟の秀長、そして側室茶々の子:捨丸…姻族は残されていた秀吉ですが、血族が次々と逝去してしまったのも この時期。本当の意味で自分の身を委ねられる者が、頼れる者が全て消えてしまったのも事実。秀吉に残されていたのは、今の自分だけが持つ武将としての権力一点のみとなってしまいました。 この時点で、自身の武力以外に権力の裏付けの無くなっている秀吉が 天下統一を維持する為には、諸大名・家臣等々を 天下統一の安寧に過ごさせるワケには行かないんですね。延々と その強大な武力を、武家衆には当然の事、公家衆や民衆にも見せ付けていなければ、豊臣の政権は維持が出来なかったんです。延々と敵を作り出し、延々と敵を制圧するその繰り返し。いわゆる軍事政権の典型です。天下布武…織田信長が あの時まで目指していた政治思想を、信長よりも武の一点に頼らざるを得ない最良の適任者が実直に継承し達成した。ですが彼は、あまりに最良の適任者で有ったが故に、下克上最高の寵児で有ったが故に、そこへ血族の次々の逝去を受け、天下統一間近で本当は必要だったはずの方向修正の機会を逃し、終生まで天下布武の狂気に弄ばれる結果を招いてしまいました。 その象徴たる朝鮮出兵は最終的に失敗します。そしてそれを目の当たりにしていた大名の一人…それが徳川家康ですね。自分が天下取りに際し厄介なモノ、それを見せ付けられた家康です。表の天下統一だけでは、秀吉と同じ狂気の二の舞を引き起こす。そもそも家康も大名に成長したとは言え、元々は田舎侍に過ぎない城持ちでしか無かった訳です。農民出の秀吉とは違うと言われても、そんなものは五十歩百歩。家康が思った事は『天下取りは、日本で区切りを付けよう』だったと思います。その区切りを付ける為に必要だった物の一つ…それが、自分に繋がる確実な血統の存在を明示する事だったんだと思います。確実たる血統の存在を表すモノ、それが家康にとっての『源氏から続く明確な家系図』だったんだと思います。 裏を返せば、コレが、家康こそが『家系図』と言う存在に強制的な説得力を持たせる意図を仕組んだ可能性が見えてくる部分です。血統に対し、家系へ明確な説得力を持たせる為に、家系図が一般に普及されたのは…と言うより 認知させたのは、実は この時期であり、それ以前の家系図と言う物は、朝廷貴族階級内部のみの公文書もしくは秘文書でしかなかったのかも知れません。この説明だと、家康の藤原系図は存在していたモノが紛失されたのではなく、元々実態として存在しなかった、と言う仮説も当然提示でき、系図詐称がココに来て、家康を始め 各家で頻繁に行われてしまった経緯にも、合点が行く部分が出てきそうです。 関が原の裏で行われていた系図詐称、天下取りに向かう家康が 何故、系図に拘ったのか。それは少なからず自分に似通った立場の秀吉を、反面教師とした部分が非常に大きく、天下統一後のビジョンを明確に作りやすかった、その一端だったんだと思います。父は幼少時に、実母は別離して開幕直前に逝去し、この父母から産まれた子供は家康ただ一人。明確に血族と言える存在は、子供達数名…秀吉の時と如何ほども変わらない状況です。そこで源氏系図に頼った事で、松平系図を再構築した事で、数多の血族を作り出し、幕藩体制を整えていった。そんな側面も有ったと思います…大体、十八松平って、源氏の高家って、一体どのような御関係なんですか?吉良が持っていた系図が源氏だった。たまたま そーだったから源氏にしたのかもしれない…何もかも懐疑的に見れば、ソコまで簡単に行き着いてしまいます。 …とまぁ、こんな感じでココまでの本当の総括と言うか、私の本音と言うか。話の中途なのに腰の骨を折った感じで、こんな言い訳ですいませんデス。ただ 本音とは言え コレだけを書いてしまうと、この雑感の最初の方に書いた『徳川系図なんて全部嘘です』の一文で、本当に終了してしまいます。それじゃあ 実も蓋も有りませんし、早々に厄介払いしたい松平初期の系図も始められない状態になってしまいますんで…とりあえず、コレも軽く踏まえて頂ければ ありがたいです。では、言い訳は このぐらいにして、そろそろ戻りますね。吉良から買収した『世良田系図』の話。 とりあえず見つかりました『世良田系図』。原本はハッキリしません。現存のは、多分改竄された後でしょうから。まぁ、改竄された後でも仕方がないですから、とにかく見てみましょう。 (世良田系図)世良田政義-親季-松平康親-信光 …です。世良田氏側はとりあえず、政義からにしています。松平氏側も第3代信光まで。そこまでは一応確定として捉えたいと思います。では中を見てみます。政義の子供に親季と言う人がいます。松平氏は二代目の『康親』から。しかも『泰親』では無く『康親』となっている様です。また、初代の『親氏』が見当たりません。では、ついでですから他の系図も見てみましょう。まずは『尊卑分脈』。 (尊卑分脈)世良田政義-親季-有親-松平親氏-泰親-信光 …です。今度は、『親氏』が入ってます。そして変なのが登場『世良田有親』です。次に『東照宮実紀』。 (東照宮実紀)世良田政義-親李-有親-松平親氏-泰親-信光 こちらにも『有親』がいますね。…と言うか尊卑分脈と一緒な感じです。ただ、世良田政義より先代が 多少違ってます。ですが、面倒なので、ココでは扱いません。で、この後も続けようと思ったんですが、他も この部分に関しては、ほとんど尊卑分脈と一緒なんです。明らかに違うのは 実は この『世良田系図』だけなんです。まず両系図の差は、
『泰親』と『康親』については、同音異句ですが、系図には 書写の時点で たまに有るミス と言うのも考えられます。この様な事例は それこそ『世良田政義』を『世良田正義』にしているモノも有りますし、漢字の意味としても『泰』と『康』は似た様な意味ですしね。「天下泰平」「国家安康」なんて感じ。ただし、どっちが正解なのかは分かりません。これは後程の話にしますが、『通字』と言う性質に於いて、検証が必要なモノも有れば、スルーして構わないモノも有ります。あまり拘りすぎると全然関係無い方へ脱線してしまう事もしばしばです。歴史には色々な説が有ると言いますが、歴史研究に於いて、コレに拘りすぎての脱線事故は、結構有ると思います。とりあえず この場合、私としては『康』の方が好都合です。この好都合をやりすぎると、松平系図は全面的に破壊されてしまいますけどね。そんな脱線事故は後程。 で、もう一つの問題は世良田有親-松平親氏のラインの有無ですね。箇条書きで3つ挙げましたが、結局の所、松平氏初期の問題はコレ1つです。コレによってどちらに信用の比重を置くか決まってきます。まずは こっちから行きます。 前章で「『松平親氏』と言う人物名は存在しない。」と書きました。ですが、何故か 松平親氏には伝承が有りました。 時宗の放浪僧の徳阿弥が流れ着き、当時の松平郷領主:松平信盛の後裔の松平信重に 和歌に通じた教養と武勇を買われて還俗し、 その娘婿に入って松平親氏を名乗り、松平郷領主の松平氏の名跡を相続した。 …でしたね。存在しないはずの松平親氏に伝承が残り、かつ ココで親氏と名乗った事を明記しています。と言う事は、コレは、全面的に嘘の話なんですね、きっと。でもコレには この後の話も有るんですね。松平村誌… 惣じて我等と申は東西南北を巡りし廻る旅人 東西を嫌わずして牢流者に候へば御恥づかしく存候 …何だか、良く分からない文章ですが;これは松平信重の娘婿である親氏が、信重に「武芸も達者、教養もブラボー!ココに来た時は、坊さんみたいな感じだったけど、実はイイトコの おぼっちゃんなんじゃないのかい?」と、出自を聞かれた時の返答です。この返答を要約すれば「我らは、色んな所を放浪していた旅のモノです。あちこち周って 何とか生き繋いで来ただけの浪人ですので、お恥ずかしい限りです。」…かなりテキトウですが、そんな感じ。要は、出自の分からない浪人であると言いたい様です。ですが、「我等」…この時、親氏は 一人じゃ無かったんですね。 素直に取って まず、後の 将軍家康は、清和源氏新田氏を、血筋の栄光に掲げていた訳です。家康の孫であり、家康への崇拝が一際強かった水戸光圀…あの黄門様は、『大日本史』と言う歴史書を編纂していますが、その主たる意図は「朝敵:足利幕府の打倒を果たした随一の朝臣:新田源氏系徳川氏の存在」を明確にしたかったワケで、何より南北朝と言う 天皇が二人立っていた時代については、足利幕府が保護していなかった南朝を正統な皇統と位置づけてます。それを第一にしていた朝臣が新田氏であり、その新田の末裔が徳川幕府だと言いたいんです。それが「フラフラしていた一介の素浪人」では困ります。もし こんな文章が残されているんなら、即 抹消している筈ですね。ただし、文章が見つかれば…の話です。つまり コレ、口承伝承だったんじゃなかったんでしょうか?松平郷の住民にとっては、そこに住んでいた人が、日本を治める偉大な人になった訳です。「この人の御先祖は、こーだった、あーだった」と、知っている事を自慢したがる者は相当いたと思います。当然文章としても残していたかも知れないです。ソレは抹消されたんでしょう。ただ、口から出る言葉の抹消は出来ません。今の時代と変わらないですね。それがそのまま口伝えで来ていたから延々と残り、江戸末期か明治時代になって松平村誌に追記されたのかも知れないと思います。ココまで行くと想像の範疇ですが、この問答は、全くの虚言では無く、少なからず松平氏の伝承であっただろう事に異存は無いと思います。 ちなみに、これについての松平信重の娘婿は『徳翁斎』と言い、『松平信武』に改名したそうです。多分、この人が『徳阿弥』であり『松平親氏』のモデルとなった人物ではないのか?…としたい所です。では次に『我ら』ですね。彼一人じゃ無かったとすれば、一体、誰を連れていたんでしょう?考え易い所は こんな2択ですか。 ①先代の世良田有親 ②二代目の松平泰親 徳川氏の正史である東照宮実紀では、有親は信重との対面の前に既に死んでいたそうです。あまり、考えない方が良いと思います。となると松平泰親ですか。第Ⅰ章でも書いた通り、親氏と泰親は親子では無いと推測されます。ですから、同伴していた可能性は無きにしもあらずです。親氏と泰親が近親なのでは?と言う推測も 初代二代と言う関係からならば一応立つかもしれません。とりあえず、同伴していたのは泰親と言う事にしておきましょう。まだ、他の可能性も否めませんがね。 さてもう一つの『泰』と『康』の話は、もうちょい後回しにして、松平と世良田を繋いだ系図検証を先に、一応どちらに世良田松平系図としての比重を置くべきか決めておきます。もう一度見てみます。 (世良田系図)世良田政義-親季-松平康親-信光 (尊卑分脈)世良田政義-親季-有親-松平親氏-泰親-信光 …ですね。ココで、第Ⅰ章でも やった、世代計算による矛盾の検証『世代過重』を検証してみたいと思います。確定させるのは世良田政義(~1396)と松平信光(1404~1488)。ただ、世良田政義の生年を確定しないとイケませんね。政義の父、世良田満義の生年は西暦1304~1368年とされています。となると、新田義貞に随行して負けてしまった西暦1338年より30年間、足利の追っ手を逃れ生き続けた事になる訳で、正直 正解とは言い難い所ですが。ただ、ココでは追記しませんが、この人が西暦1300年代以降でないと、不整合が満義より前代で多発してしまいます。つまり、満義以前の世良田系図を滅茶苦茶に弄らないといけませんし、それをすると全体の整合性に矛盾が生じます。嫌なドミノ倒しですね。と言う訳で、少なくとも西暦1300年以降と言うラインは欲しい所です。 そしてその満義を西暦1304年としているモノに関しては、その子:政義の生年を西暦1323年に しています。第Ⅰ章で書いた通り、政義には嫡男がおらず世良田氏は断絶しています、本来は。ですが 政義には娘がいて、娘は新田義貞の息子:義宗と結婚し、彼らの孫の代まで足利氏に追われ続け打ち首。残った孫の一人の息子が、世良田の跡を継ぎ、真船氏と改姓しました。…と言う話でしたね。政義の娘と結婚した新田義宗の生年は西暦1335年。この二人の結婚が1360年頃と考えれば、政義は40代。とりあえず無理は無いと思います。よって、政義の生年は西暦1323年とします。世良田政義(1323~1396)。混乱しそうなので、一度表にします。
これで、とりあえず 世良田政義の生没年を確定しました。それでは、政義に嫡男がいたと言う仮の話を、やってみましょう。世代基準は前回の通り。世良田政義の生年から松平信光の生年まで、約80年有ります。それでは前回と同様政義から20年下げます…1343年。また、信光を20年繰り上げます…1384年。よってこの間は40年となり、最大でも何世代入るかを検討すれば良いんですね。43年頃で1世代目、63年頃で2世代目、83年頃で3世代目。よって答えは、最大で3世代と言う事になります。では これを両系図に当てはめます。
と言う訳で、世良田系図の方は ちょっと幅有りですが、コレは許容範囲内です。世代基準を最低限の一世代20年として計算している訳で、一世代を25年程度にすれば良い感じですもんね。もう一方の尊卑分脈には世代過重が掛かり無理が生じました。よって、尊卑分脈は整合性に欠ける。 …と言いたい所ですが、『松平親氏と泰親は、親子では無い』と言う仮定を、今まで再三書いてきました。それを加味する必要が有ります。ですが、尊卑分脈だけ 都合を良くする訳には行きません。世良田政義に息子は存在しないと言う判断が有る為に今回、政義の子:世良田親季の生年はグレーゾーンにしてますが、世良田・松平を繋いでしまっている系図関係では、親季の生年を西暦1358年辺りにしている様です。と言う事で、両者にイーブンな仮定を加えた上でやってみます。
…やっぱり無理ですね『尊卑分脈』。世良田と松平を繋いでいる時点で『世良田系図』にも改竄が加えられていると判断されますが、その部分以外での両系図の信憑性比較でも勝負有り。なんですが、松平氏初代『親氏』の存在が有るか無いかの時点で、世代検証しなくとも、この両系図の勝負は付いてしまっているんですね、実は。第Ⅱ章で書きましたが、家康は清和源氏となる際、松平氏を 一気に清和源氏にした訳では無いんです。まず藤原姓を取り、ソコに載っていた『徳川親氏』の『徳川』なる名字を残し、更に源氏改姓の際には、その『親氏』を外す訳には行かなかった。と書きました。よって、完全に改竄された系図には、少なくとも必ず『親氏』が入っていないとイケないんですね。つまり、家康が系図を完全に改竄してしまって、世良田・松平両氏の系図を滅茶苦茶にしてしまったのは、この『尊卑分脈』の方になると思います。 この結果は、系図を見る際の基本事項も後押ししてくれます。『近世の武士に関わる尊卑分脈は信用するな』です。『尊卑分脈』は信憑性の非常に高かった系図集です。が、家康を筆頭とした馬の骨だらけな近世の武士どものデタラメな加筆に次ぐ加筆で、イタズラ書きの山と化してしまいました。当系図内でも 未だにソレが山程と有る事は、承知していて抜いていないモノも有ります。一辺に検証など出来る訳も無く、とりあえず保管場所が無いので入れておこう…そんな感じなだけです。 尊卑分脈だけを責めても仕方が無いですので、一方の世良田系図も、世良田・松平を繋げてしまっている時点で、改竄されているとは見るべきです。つまり、この二系図は改竄の段階を表しているんだと思います。つまり 第一段階『世良田氏を松平氏に繋げる』・第二段階『どーしても親氏を外す訳に行かないから、強引に入れる。徳川の由来を残す』と言う流れだと思います。『世良田系図』に松平氏を繋げた『松平系図』を まず作り、その『松平系図』を使用して『親氏』の加筆・それから、『徳川』の加筆を加えたんだと思います。後述しますが『世良田有親』を『得川有親』とも言います。『徳川』と『得川』による音の関連付けです。ソレを朝廷に提出した後、絶対権力者となった家康は、朝廷から『尊卑分脈』を奪取し、イタズラ書きの先頭を切って始めたと。そんな所じゃ無いんでしょうか。世良田系図は改竄第一段階の『松平系図』が出来た時に、用済みにされてしまったんだと思います。 さて、そんな推測が付いた所で、ココで残した問題は、まず 両系図に付いている… ①『世良田政義』に嫡男は存在しない筈なのに、何故 嫡男に『親季』と言う名前の人物が置かれているか? ②同様に、孫の『世良田有親』と言う人物は何なのか?一体何の意味が有るのか? まず結論から言います。『親季=有親』の二人は、親子関係で存在していたと思います。それも『世良田氏』の人間の可能性もあり、更に『松平氏』に関係していた人物として。『尊卑分脈』を嘘と言い、よって、『尊卑分脈』に書かれた『親季・有親』は架空の人物。…と取るのが、自然な流れだと思いますよね。でもこの二人は親子として存在していたんだと思います。 では その上で、この二人は 一体 何者なのか?一度 この章の最初の頃の話を、思い出して頂きたいと思います。 松平氏の英雄、家康の祖父『清康』は源氏を称し、名を『世良田次郎三郎清康』と言う。 …でしたね。コレについては『三河を治めた清康が、隣国の源姓今川氏に対抗して源姓世良田氏を偽称した。』と言う見解が大勢の様です。なるほど。とも思いますが、疑問が有ります。ならば… ①何故、世良田氏なのか? ②何故 清康だけが世良田氏を称したのか? この2点を立証しないと、上の見解は飛んでしまいます。まず①…世良田氏は明確に源氏です。また、新田源氏の半惣領ともなっている立派な源氏です。が、世間的にはマイナーな源氏です。現在でさえ恐らく、『世良田』さんに関係のある方 以外でしたら、徳川氏に興味のある方くらいしか、世良田氏については全然知らないと思います。足利源氏に対を成す新田源氏ですが、双璧と言うには、あまりにバランスが取れません。特に戦国期になれば、新田源氏は 既に足利側から悉く駆逐され細々と残っていた源氏でしかありません。『今川氏に対抗して…』と言いますが、その対抗馬が『世良田氏』って言うのは、どーゆーバランス感覚なんでしょう?また、清康は三河を平定した後、その今川領へ向かうのでは無く、反対の織田領へ向かっています。もしこんな無駄な所にまで対抗意識満々なので有れば、素直に今川に向かうんじゃないでしょうか?ナンか、訳の分からない大人の理屈でも有るんでしょうか?イイワケに苦しいですね。 そして②。清康が世良田氏ならば、親の信忠も 子の広忠も 世良田氏のはずです。当たり前です。なのに何故、彼だけ世良田を称したんでしょう?『清康は上野の世良田郷で育ったとか』…無理が有りますね。遠すぎます。仮に行けたとしても、何の理由で父の信忠が、上野へ清康を送る必要が有ったんでしょう?可愛い子には旅させろですか?家督を13歳で継いでいる清康です。アホ信忠のせいで、松平家中も大変であったろう時に、そんな余裕が有るんでしょうか?松平家が大変だから、知り合いが住んでいた世良田郷に非難させていたと言う事ですか?凄い無茶な設定ですね。その頃の上野は、後北条氏と上杉氏のせめぎ合いの渦中で、たとえお知り合いが居たとしても、返って子供を危険に晒す事になります。 結局、他の理由を探さなければならず、この両方の疑問を満たしてくれる世良田清康の理由として、一つの仮定が挙がります。 清康の母親は、世良田氏の人間だったのではないか? 仮定に過ぎません。が、母親が世良田氏の人間であれば、それより前代の連中に世良田を名乗る理由が有る筈も有りません。また、清康の子孫が名乗るのは無理があります。つまり 代々の先代の姻戚関係を一つ一つ上げていたらキリが無いですからね。清康の母親が、たまたま世良田氏だったから。だから清康が世良田を名乗っていた唯一の人と言う事になるのではないでしょうか?第三代信光も名乗っていた可能性が有るとされていますし、上の松平氏歴代表にも付記してますが、コレを明示しているのは、『尊卑分脈』を元に作られた、江戸時代の系図集を検証していたモノから引っ張って来てます。よって、『近世大名の尊卑分脈は信用するな』です。実在が確かな松平信光に世良田の名を付ける事により、松平氏は世良田の関係であったとしたいんです。こんな事をしてくれたモンだから、ココでまた別口の推測も立ってしまいます…武家松平氏勃興の初代は、親氏(信武)ではなく、この松平信光なのではないのか?と。議論が分散しますので、とりあえずコッチの推測は 当面 置いときます。 話を戻し、松平清康の母親は現在に於いても、誰なのか断定されてません。水野氏と言う人もいれば、酒井氏と言う人もいる。源氏の大河内氏だと言う人もいれば、松平氏の身内だと言う人もいる。史実確定な松平信光から家康までで、母親が全然不明なのは、この清康だけなんです。もしかしたら清康自身も その周囲も清康の母親を本当は知らなくて、子の広忠も おばあちゃんを知らなかったのかも知れない。父の信忠は、奥さんも分からないくらい痴呆症だったのかも知れない。無茶な可能性ですが…でも、ココだけっつーのは やっぱり不自然なんですよね。むしろ 清康の母親の詳細を故意的に外したと見た方が自然では無いでしょうか?家康が。つまり、系図作成の際、清康で世良田氏が介入していたとして系図に明記してしまえば、後世に於いて推測を容易に立てられてしまう。 そして、農村の域から出ていなかった松平氏が未だ母系社会だった為、幼少を母親の元で育ってきたであろう清康は、母にその先祖の話を聞いていたんでは無いでしょうか?だからこそ、マイナーであった源氏世良田の歴史を少なからず知り、この人は世良田清康を誇称したんじゃないんでしょうか?強引かも知れません。でも、この仮定を当てはめると不自然が少ないんです。 では次に…順が逆になってしまいましたが、その手前の疑問であった、世良田親季・有親の親子関係について。『世良田有親』は、江戸時代に作成された系図によっては『得川有親』と言う名字を付けているモノが かなり有ります。だから『得川』で『徳川』…取って付けた様な話ですが、本当に取って付けたんだと思います。正確には有親は『得川』と言う名字を取って無かったかも知れません。無かったかも…と言うのは、有親は『得川』に関係した人間ではあろうから…と言う事です。今迄の話で、初代として松平氏から親氏の名を系図から抜けないと言う話はしました。伝承も松平郷に残っていた伝承を そのまま使いました。ですが、ココで問題です。親氏を残したんですが、親氏を残した理由の一つ、家康が改姓した『徳川』を使った部分が、この初代親氏では、結局 新しい系図に意味付けさせる事が出来なくなってしまったんですね。『松平親氏』が新たに誕生した為、『徳川』の姓が無くなってしまい、家康が『徳川』を脈絡も無く突然名乗ってしまう事になる事態に陥ったんです。結果が先んじてしまい取り消せず、原因が消失してしまった状態です。ワケが分かりませんが、嘘の上塗りには こーゆー事が頻繁に起こります。よって、とにかく家康は、原因となってくれる新たな『徳川』を探さなくてはなりません。そーすると、当時、親氏以外で徳川を名乗っていたモノが他にいたか、どーかを探すべきなんですが、後世に残す系図としては 世良田氏を関与させてしまった以上、なるべく世良田氏に系図上関係の有る人物で徳川を探さなくてはなりません。テキトウなモノを引っ張って来ると、また系図の整合が無茶苦茶になってしまう可能性と、いずれ変な重複を見破られる可能性が有ります。系図の修正を、広範に渡って 監視しなければならないんですね。よって、狭い範囲=世良田氏の内部で徳川を探した方が面倒が少ないと言う事です。 結果、ピックアップされた存在が『世良田有親』。彼が『得川郷』に住んでいたと言う事実が、ポイントだったんだと思います。ただ、この時に初めて『得川郷』が家康によって作り出された可能性…ならば、『有親』を組み込まなくとも良いのではないか?と言う事になります。が、その可能性が有るのなら、『得川郷』では無く、『徳川郷』にしても良かったと言う事になります。ワザワザ 同音異句の『得川』を使う必要は無い訳です。よって、上野新田領には『得川郷』が元々有ったと取るべきです。そして、そこに住んでいたのが、『世良田有親』と言う人だったんだと思います。また、別の可能性として、第Ⅰ章に書いた『 新田三河前司 世良田頼氏 』や『前三河守源朝臣頼氏』。頼氏本人は鎌倉との関わりで忙しく、三河に行った事が無かったかも知れない。でも、その関係者が少なからず三河に赴いていた可能性は高いです。世良田一族で、三河に派遣された一人が『有親』。『有親』はソコをピックアップされただけなのかも知れませんけどね。 そして、父としている『世良田親季』ですが、更にその父にさせられた『世良田政義』には娘しかいなかったワケで、元々の系図はソコで途切れていた筈ですから、『親季』を追加する理由は、『政義』側からは考えづらいモノが有ります。ダメ押しするなら、通字に関しても、この部分が不自然ですしね。よって、『親季』を加えた理由は『有親』側との関係と言う事になります。元々 この二人は親子関係に有ったと思われ、本来なら系図の構成や矛盾を出来るだけ少なくする為、もう少しその先祖代々を組み込みたい所ですが、ココに これ以上を追加すると世良田・松平系図が完全に世代過重を起こしてしまうのは、先の尊卑分脈を見ても明らかです。だから 諦めたんだと思います。世良田系図からすれば、先程の話は『有親』ではなく、こっちの『親季』の可能性も有りますが。 一応、親季と有親が系図上に置かれた理由を鑑みて、この二人は親子であったと取るべきだと思います。ただ、ドコの世良田氏から抜き取ったのか、抜き取られた後で整合してる筈ですので、ちょっと判別が付きません。ただし、先ほどの『高家』の話…吉良氏の他に横瀬氏・由良氏を加えている事から、また、この二家が入っているにも関わらず 世良田氏の家督を持っていたはずの真船氏が加えられていない事から、横瀬氏・由良氏の どちらかの系図から抜き取ったと思われます。ただし、世良田の家督を継ぎ、真船氏を称したのが『真船義親』と言う人です。この後裔にも『親』を使っていた者が存在した話もあるので、通字の類と計ったりしてと…決して そーゆー風に固執しちゃイケないわけですが、可能性も否めないと言う所。とにかく、新田氏族の この辺から親季・有親の親子が、そして本来追加したかったであろう彼らの先祖も共々に抜き取られたんだと思います。 よって、この二人は親子関係だと言う事で、一応のケリ付けたいと思います。当系図上も親子関係として置き、また、政義と親季に繋がりは 全く無いと踏んでいますが、完全に親季・有親を系図から抜くのも如何ともし難いので、とりあえず仮定の話として付け加えておきます。世良田氏か どーかと言う話には まだ考慮の余地が満載ですが、偽系図作成上の予測として十分に考えられる話だとも思います。一応ココで整理します。
ですが、ココで出てくる疑問が有ります。世良田系図には、親季だけ載せられていて、有親が無いと言う点。二人を一辺に抜き取ったはずですから、有るなら両方あり、無いなら両方無いはずです。ですから この後触れたい所になって来ます。また、これは この二人が松平氏に関係した人物か どーかを探る部分も一緒に考慮できる話となる訳です。 |