徳川氏系図補足まえがき。『徳川氏は源氏の末裔』…誰が、信じますか?『平家(平)⇒源家(源)⇒北条氏(平)⇒足利氏(源)⇒織田信長(平)』…次は源氏--だから 徳川は源氏--歴史は、パズルじゃ ありません。少なくとも その間に、御醍醐天皇の建武の新政があり、豊臣秀吉の時代が有ったんです。源平更迭思想などと言う紛いは、完全に江戸時代で作り上げられたデッチ上げです。当時の『秀吉色』を払拭させたいが為の戯言です。 これから徳川系図をやっていこうと思ってる訳ですが、徳川の先祖の系図なんて、全部 嘘です!むしろ、嘘かどーかさえも分かりません!と、声を大にして言いたい所です。本音は、やりたくないんです。源氏だか ゲジゲジだか 知りませんが、イイ加減にして欲しい話です。そもそも無名な田舎侍だった人間の系図なんて 稀な偶然でも伴わない限り、作れるわけが無いんです。御自分に当てはめれば分かる話。「御自分の五代前の先祖が誰なのか?」なんてのが簡単に分かる人は、どれだけいるんでしょう?「それでも天下を統一した家康なんだからさぁ、そのくらい分かるでしょ?」。えぇ、分かりません。なら、戦後の総理大臣全員の五代以上前の系図なんて作れますか?作れませんよ。天皇家へ民間から お后に入った御三方…美智子皇后・雅子妃・紀子妃、この方々さえも五代以上前まで遡れるか どうか。つまり この情報過多な現代でも無理なんです。ましてや江戸時代前の話です。天皇陛下は現在125代目…と 簡単に言いますが、天皇陛下が伝承も含めて125代、確実な所でも100代前後…それを明示されている事の方が、尋常では無い話なんです。 個人的な意見を言わせて貰えば 徳川家康は、新田系図を面倒な事にしてくれた最悪の詐欺ダヌキです。ですが まぁ、家康に限らず近世大名なんて どれも馬の骨だらけな五十歩百歩ですし…織豊は もちろんの事、藤原系と言われている奥州の伊達、桓武平氏自体が短代途絶で 上杉謙信の長尾氏なんて全くの別系だと言う話もあるし、それこそ この清和源氏自体、当時の文献等を精査し信用すれば、初代経基と次代満仲の親子関係は、ありえない話。言い出したらキリが無いくらい どれもこれも怪しいモノです。ですから そんな事を言ってても、それでは話が進みません。 私の気も進みませんし不本意ですが、ある程度 信じる方向でやるしかなさそうです。とにかく、現存している徳川の先祖系図が偽系図である事は 大分にして明白なワケで、この偽飾を一辺に考えると 私程度の脳みそでは混乱してしまいます。徳川氏系図に於いて 問題となる焦点の筆頭は、松平氏初期の部分になる訳で、今回は その部分限定で 考察する方向になると思います。可能性の有るモノをとりあえず列挙して、いくつかのポイントとなる点を見つけ出し、最終的に その部分の系図に至る形を整えたいと思います。多分、都合の良い解釈で雪崩式になるとも思います;; どっちにしても、嘘を正論の如く検証する…アホくさーです。あーイヤだイヤだです(つД`) 引用に関しては、歴史関係の引用もさながら、果ては 嘘の付き方…みたいな 心理分野関連まで、素人ながら多少お勉強させて頂きましたので、指向性や方法論等、参考図書やサイトからの情報も多分に拝借しています。ですが とどのつまり、私本人も嫌々ながらな『嘘の創作作業』の為に使わせて頂いたワケで、この件で引用を あからさまに明示する事は、参考にさせて頂いた先方の方々に対し、非常に失礼にあたると思いますので、直接の引用は避ける様に努力しますし、古文書に関する些少の引用は回避できませんので仕方が無いですが、それでもなるべく触れないで済む様に、参考引用に関しても表現は控えさせて頂きます。 そんな感じで、有る程度 伝承や文献・残存(残骸?)系図に頼るしか方法が無いため、嘘を百も承知しつつ、徳川の先祖の系図を作ってみたいと思います。ただし、この『徳川氏系図補足』は、徳川関係系図の構築としては初歩中の初歩、基本中の基本事項しか、載せない方向にするつもりです。最低限 この程度を前提に進めないと、系図らしいモノさえ構築出来ない、無駄を目一杯排除した話に制限出来る様に努力するつもりです。『普通に書いたら、この20倍は必要だなー』と言う所が、現時点での文章構成の目安…と言う事は、1/20くらいだから、4,5ページ程度で終わらせられれば万々歳かなーと。どれだけ短く終わらせられるか、そればっかり考えてます。ですから、多少 話が飛んでしまう可能性も否めませんが…その辺は御了承下さい。 掲示板等に於いても、以前から この関係は 初歩的な御質問が多い部分だったんで、その意味でも一度 コレを書いた方がイイのかな?と思った次第です。なるべくコチラを一度御覧になって 当サイトに載せるであろう松平・徳川系図の主旨を御理解頂いてから、御質問下さります様よろしくお願いいたします。でもコレ、それでも長くなると思います、多分。余程 おヒマで無い限り、読まれるのは避けて頂きます様、お願いいたします。 もくじ
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J.徳川・松平氏現在、東照大権現として日光東照宮で祭られ、あの薬師如来様の権現(この世での人の姿)を自分にしていると言う、天罰をも恐れぬ調子乗りの タヌキじじぃ…それが徳川家康公。薬師如来様は もっとスマートな像のハズです。ですが、それが権力者と言う者です。丸く肥えたデブがソレを語るとは、ふとどき千万な話ですが、テンプラの食い過ぎで胃潰瘍を起こして お亡くなりになったのは、中々に 油デブらしい往生…まぁ 軽い天罰でしょう。 さて、この日光東照宮。栃木県の日光市と言う所に有ります。日光東照宮は東照宮の中でも世界遺産や国宝等ズラズラですから やはり有名ですね。今、「東照宮の中でも〜」と言いました。実は他にも東照宮と名の付く神宮は いっぱい有ります。例えば、上野東照宮・久能山東照宮・仙波東照宮・仙台東照宮・世良田東照宮・松平東照宮…まだまだ有ります。これが東照宮と名の付いた家康の縁のモノとなる訳ですが、今回は松平・徳川の系図関係についてですので、2つほどピックアップして話を限定させたいと思います。使うのは、この2ヶ所、世良田東照宮と松平東照宮。世良田東照宮は隣の群馬県、松平東照宮は愛知県に有ります。 まず 松平東照宮のある愛知県…昔は三河と言われていた土地で、ココは松平氏と言う一族の領国だった所。戦国時代の歴史関係の図 辺りを参考にすると、尾張の織田氏と遠江・駿河の今川氏に思いっきり挟まれている勢力地図なんかが載ってますね。松平氏が代々住んでいたのが この地域であり、松平氏の邸跡が そのまま神社になってるらしいです。 ではもう一つ。世良田東照宮と言うヤツ。群馬県の尾島町と言う所に有ります。世良田はソコの地名です。で、コレは日光東照宮にも通じますが、普通に考えて、何故 栃木・群馬と言ったこの地域が家康の縁のある土地なのか?縁も ゆかりも無いはずなのに何故 日光東照宮が東照宮の中心とされてしまうのか?皆目見当の付かない話ですね。事実、歴史書にも 家康について あまりココの関係の話は出てこないと思います。ついでに歴史では「日光東照宮 寛永の大造替」と言う事で、3代将軍家光は 日光東照宮に有った神廟を移転させ、現在の日光東照宮に至ります。で、この旧日光東照宮に有った神廟の移転先…コレが世良田東照宮です。家康死去時で奉られた神廟がココにある訳ですね。つまり実質は東照宮としての本家は コッチみたいなモノです。そんな大事なモノが置いてある神社なのに、世良田と言うのも よく分からない地名ですし、何故こんな所に移転させたのか?不思議ですね。 とりあえず、コレ以降は当時の話になりますので旧国名を使わせてもらいます。使うのは…東愛知=三河、西愛知=尾張、東静岡=駿河、西静岡=遠江、栃木=下野、群馬=上野、大体これくらい。後は御自分で調べてくださいです。 では話を戻し『松平氏』ですが、少し歴史を知っていますと「徳川家康は松平元康」…徳川家康の昔の名字は 松平であった事を御存知の方も多いと思います。で、この徳川家康。徳川氏としては「初代」ですが、前身の松平氏としては『9代目松平元康』となります。と言う訳で、家康を9代目とした概略を並べてみます。
当初、上の表には 各人に一言ずつ付け加えてたんですが、アホ臭い話ばっかり書いてしまったので削除しました。 さて、この表で行きますと松平氏初代は「松平親氏」と言う人です。そして、ココで先程の「世良田」の文字も見えました。第3代松平信光、及び 第7代松平清康の通称に入ってますね。ただし、信光の方は後世で取って付けられた嘘の可能性が否めない状態となってます。とりあえず、家康の先祖に「世良田」を使っている人が存在する事は分かりましたね。嘘の可能性の高い、信光の世良田は まず置いてといて、何故 第7代松平清康が他代には存在しない世良田を名乗ったのか?と言う所です。まず「世良田と言う地名に由来する」と言うのには無理が有るんですね。「世良田」は上野の地名です。清康は三河の平定に努めた人ですが、三河以外に出た節は有りません。よって、何百キロと離れた地名を使う事には無理がありますね。なら、「三河にその地名が有った」…コレも無い筈です。では何故 清康が世良田を称したか? ココで ちょっと視点を変えて、地名ではなく 歴史上の人物として世良田と言う人を探してみます。 鎌倉時代末期の話。源頼朝一族を暗殺し、叛意を示す御家人達を悉く弾圧&殺害し、こうして鎌倉幕府で権勢を振るってきた執権北条氏は、100年経過した後、度重なる元からの襲来により、その権勢が衰退します。最終的には時の天皇:後醍醐天皇の画策にまんまと乗った 当時 関東の御家人『下野の足利尊氏』&『上野の新田義貞』両名の謀反です。コレによって鎌倉幕府は滅亡。後醍醐天皇による公家社会:建武の新政が始まります。が、ココで今度は足利尊氏が勝手に鎌倉に幕府を開こうとします。コレに怒った後醍醐天皇は、新田義貞・楠木正成等に足利尊氏討伐を命じます。この後ゴチャゴチャ有って、結局 尊氏は都に入って勝利。後醍醐天皇は南の山奥へ非難。尊氏は後醍醐天皇とは別の天皇を都に仕立て上げ、将軍宣下に至り 室町幕府が始まります。ついでに南北朝時代と言うのも、尊氏が仕立て上げた別の天皇の北朝(都に居たから)と後醍醐天皇の南朝(都の南の山奥に逃げたから)と言う二朝が出来てしまったこの時期を指してます。 ところで、負けてしまった新田義貞ですが、彼は 清和源氏新田氏流…いわゆる新田源氏嫡流八代目に当たります。この辺は清和源氏 家系図13の系図にいますので参考にしてみて下さい。初代は義重。そして三代目に政義と言う人がいます。この政義の時、新田氏は 初代 義重の頃から幕府の嫌がらせを受けていた氏族で、幕府に色々とナンクセ付けられて上野の惣領(領地を治める)職を没収されます。結局 コレが、新田氏が鎌倉幕府滅亡の最右翼となった原因なのかも知れませんが、それはさておき。その没収された惣領は同じ源氏の一族である岩松氏と世良田氏の両氏に半分ずつ与えられる事になりました。と言う訳で、この二氏は新田の半惣領と言われているんですね。さて、ココで出てきました『世良田氏』です。ちなみに半惣領を受けたのは『世良田頼氏』。鎌倉幕府滅亡の際にも頼氏の曾孫:世良田満義が新田義貞に随行しており…と言う事は、義貞と一緒に負けてしまった。と言う事になりますね。時に 西暦1338年(延元3年)…多分。 この 世良田氏、清和源氏 家系図13の系図を見ると出ていますが、父:得川義季から二流に分かれていますね。一方が世良田頼氏、もう一方が得川頼有です。この『得川』、ひらがなで書くと『とくがわ』に なります。漢字は違いますが、どこかで聞いた事のある名字ですね。ただ、ここで出てくる『得川』が変なのは事実です。現代では少ないですが、当時は大所帯が当たり前。新田氏と言う源氏惣領家の半分引き継いだのが『世良田氏』です。少なくとも惣領家を半分引き継いでいると言う大出世ですから、ココの御家族としては大事件です。それこそ、頼氏は世良田に名字を変えるくらいの大事件。当然、一緒に住んでいる御家族も世良田を名乗って然るべきです。が、父親の義季も兄弟の頼有も得川のまま。むしろこれでは惣領家たる頼氏が分家扱いで、頼有の方が宗家扱いみたいな感じです。ナンか解せませんね。恐らく この世代辺りから、後世に於ける家康の詐称画策が始まっていると見て間違いないと思います。後に触れますが、本当の所は得川なんて名字は無く、高い確率で父も兄弟も新田のままか、世良田になっていた筈です。 ところで、この世良田頼氏。鎌倉幕府第5代将軍:藤原頼嗣の時、一緒に神社参りに行っています。将軍と一緒に神社参りしてるんですから、半惣領家と言うのは やはり大きな権威なんですね。さて、その時の事が当時の歴史書『東(吾妻)鏡』に載せられていて、頼氏も紹介されてます。『 新田三河前司 世良田頼氏 』、それから世良田の長楽寺にある文書には『前三河守源朝臣頼氏』とされているそーです。…と言う訳で『三河』です。あの『三河』です。いやぁーな予感です。ただ、この長楽寺にある文書もアテには出来ません。この文書、歴史が広範囲なモノで、実は平清盛VS源義朝の保元の乱の時期のモノも有ったりして、ソコに「義季に新田義重は新田荘を譲り、徳河氏を名乗る」と有るらしいです。先程の話を踏まえれば、コレも後世の画策が濃厚と見るべきだと思います。が、全然関係の無い『東鏡』にも三河の言葉が載せられている訳ですから、全面的に嘘とも言い難いです。とりあえず懐疑的ですが、コレは家康が源氏を詐称したくなるポイントの一つになる思います。さて、系図を見てみますが、一応、世良田頼氏の系図は この後、世良田頼氏−教氏−家時−満義と続き、先程の通り 新田義貞と一緒に負けてしまってます。 ココで、浪合記(なみあいき)と言う文書が有ります。南北朝の争乱で尊氏に負け去った南朝側の宗良親王は、北朝側の追撃を振り切るべく、各所を転々と周り戦ってました。宗良親王については天皇家直系系図に第96代後醍醐天皇の子供として入ってます。本来、この悪アガキを南朝側がしなければ、南朝側関係一族の徹底駆逐なんて事を尊氏は しなかったと思います。が、宗良親王はアガいてました。南朝側関係一族と言えば、新田氏も そして世良田氏も徹底駆逐の対象です。と言う訳で、宗良親王と一緒にアガいてました。結局 宗良親王の子:伊良親王も一緒にアガいていて、この親王の終焉の地が 信濃の浪合郷と言う所らしいです。「らしい」と言うのは、この伊良親王自体が 実在か どーか定かでないと言う所だからなんですね。要は、この辺からハッキリしない時期に入ってきます。とりあえず、この時 追随していた世良田氏の人間は『世良田政義』と言います。『世良田満義』の子供とされている人です。ちなみに、この御一行は三河へ向かうはずだったそーです…が、途中で殺されたらしいです。時に西暦1396年(応永三年)…多分。先程の系図にも一応追加します。 世良田頼氏−教氏−家時−満義−政義 となります。 そしてこの後が全然分からなくなる状態…と言うか、途切れてます。ですが、世良田氏の家系は一応存続してるんですね。いわゆる母方と言うヤツです。この政義には娘がいた様です。その娘、先程から何度か出てきている足利尊氏の目の敵…宗家 新田氏の嫡流『新田義貞』の息子で『新田義宗』と結婚しています。義宗の子供を『新田貞方』と言い、更にその子供、『新田貞邦』と共に、こちらは関東方面でアガいてましたが 結局 捕まり、七里ヶ浜にて親子共々打ち首。この前年に足利義満も死んでおり、この辺で 足利VS新田の鬼ごっこも ようやく終焉を迎えます。時に 西暦1410年(応永十七年)…多分。 その後は、当然足利の追撃も弱まり、生き残った様です。『新田貞邦』の弟の『祐義』が新田氏を継ぎ、更に その子供の『新田義親』が世良田の跡も継ぎ、生まれ育った『真船』を名字とし、以降は 一族安泰に 平和に暮らしましt…んな訳が有りません。清和源氏 家系図13を見ても分かる通り、同じ位の世代の所に 山名氏からの流れで『宗全』と言う名前が有ると思います。そーですね、応仁の乱の『山名宗全』です。要は この頃から戦国時代の序章に突入している訳で、例え足利の追撃を振り切ったとしても、今度は戦国期。そう易々と一族安泰が保てたとは思えません。多分この頃から、真船氏も不明の領域に突入すると思われます。真船氏は戦国期に武田や伊達 等の大名に仕えていたと言いますが、その存続の不確定は尚更ですね。 と言う訳で、概略的に世良田と言う人を探し探ってみましたが…だから、何なんだ?と言う所ですね。結局、世良田と家康を結び付けるラインが 何も見つかりません。世良田が三河守を名乗っていたのは書きましたが、それはあくまで詐称する為のタネの一つでしかなく、これでは ソレだけの意味しか無いんですね。あとづけ的な裏付けの一つにはなっても、動機付けにはならないですもんね。嘘に裏付けもクソもない訳ですが(つД`) グダグダ言っても始まらないですから、他の方面に目を向けて見ましょう。と言うか、手法が逆になってしまったと言うか、『松平系図は どこまで正解なのか?』っつー本体部分の検証を すっかり忘れてましたね。 と言う事で 今までのは前書きと言う事にして(長い前書き…;;)それでは松平系図を見てみましょう。 とりあえず先程の表の通り。もう一度、書いてみますね。
こんな感じですが、ドコまで正解なのかと言えば、とりあえず生没年が記載されている…と言うのが単純に指標となると思います。よって、『第3代松平信光』と言う事になります。通説を見ても、そこら辺の偉い おじーさま方の見解も そんな所。一応、『信光』から家康までは存在の信憑性に疑問は無いとされています。逆を言えば、初代&2代の二人に疑問の余地が有ると言う事です。更に初代に疑問の余地が有ると言う事は、何故この『松平親氏』が初代なのか?と言う理由が必要となり、道理を通さなくてはなりません。ですから、とりあえず『松平親氏は存在した』と言う設定を置かなければ話が進みませんので、とりあえず存在していた事にして、彼についての伝承でも…。 伝承では『時宗の放浪僧の徳阿弥が流れ着き、当時の松平郷領主:松平信盛の後裔の松平信重に和歌に通じた教養と武勇を買われて還俗し、その娘婿に入って松平親氏を名乗り、松平郷領主の松平氏の名跡を相続した。』だそーです。当時なんて識字率も低かっただろうに、三河のクソ田舎モンが和歌ですか?和歌の良し悪しが分かるんですか?甚だ疑問です。ただ、坊さんらしいと言う事で、一応 納得させられる感じも有りますけどね。 さておき、ココで分かる事は、松平氏には『松平親氏』より 先代が いたそーです。名を『松平信重』と言います。更に その先祖にも『松平信盛』と言う人がいたらしいですね。要は、松平氏は もっと昔から存在していた事になります。ちなみにこの『松平信重』は、松平氏の養子に入っているとされていて、在原氏の流れを引く『荒尾宗顕 証覚』と言う坊さんの孫らしいです。と言う事は『松平信重』は、いわゆる松平氏の始祖と言う立場であろう『松平信盛』とは繋がらない人と言う可能性が高いです。 とりあえず『信盛』・『信重』と、『親氏』以前の人が挙がって来ましたので、この2人について、分かる限りの事を…。 ところで、『親氏』以前の話をする前に。コレ以降は、『世代』『生年』と言う数字の割り振りが必要不可欠になってきます。ココで一つ、既定を作ります。世代と言う概念の幅を、一世代20年とします…まぁ、そんなもんでしょ?と言うか、コレが少なめの見積もりです。一世代20年と言う事は、少なくとも『各世代 20歳までに結婚し、子供が出来ている』と言う事で、やっぱり最小限の見積もりと言う事になります。あまりギチギチにしたくは無いんですが、『平均20年未満』は かなり難しいと言う事で、つまり 余裕が出てくるのは『一世代20年以上』と言う思考で一貫統一出来る為、敢えて この設定で行きます。先程の松平氏歴代表では20年を割りこんでいるのが2ヶ所ありますが、これは完全に 応仁の乱以降、松平氏も戦国大名期に入っているので『家督の存続』が最優先とされる為、20年未満が起こりやすい事象であると言う事は、頭の片隅に置いといて下さい。こーゆー事は『家督継承優先』の意識が、有るのと無いのとでは、かなり差が出てきます。まだ田舎百姓であった頃の松平氏にとっては、切羽詰った家督の継承と言う意識は あまり無いと思われますので、コレは戦国大名化した松平氏の特例部分になると思います。それでも 第3代信光から第9代家康までを平均すると、大体20年前後です。っつー感じで、今後の話を進める上でもコレって大事なんで。とりあえず常識の範囲内として、一世代20年を基準にします。 では本題へ。始祖であろう『松平信盛』ですが、元は『在原信盛』と言う人で、後宇多天皇に仕えた公家の人だと言われています。この人が三河国松平郷を開墾して館を築いたそーです。コレが 弘安年間の頃だと言われてますから、西暦1280年代…多分。で、その家督相続者が『松平信重』と言われてます。が、先程の通り、実子では無い様です。まぁ、とりあえず一緒に畑を耕していたのかも知れません。同様に在原氏の流れを汲んでいる様ですから、この時点で、近親血族であった可能性は否めません。なんとなく、松平氏の先祖は在原氏の様に思えますね。ですが、この存在は、かなり問題を抱えています。 仕えていたと言う 後宇多天皇の在位は1274年〜1287年。松平館を築いたのが 1280年代ですから、『松平信盛』の生年は大体1240年頃ではないかと推定されますね。が、『松平信重』の実祖父:荒尾宗顕は暦応年間の頃の人…1340年頃と言う事になります。と言う事は、これが荒尾宗顕の生年なワケでは無いでしょうが、調整の上、想定できる範囲として、孫の『松平信重』は1340年〜1360年辺りに産まれた人と言う事になると思います。信盛が100歳〜120歳時の子供…無理が有りますね。養子と言えど、如何なモンでしょう?いずれにせよ、この2人に直接の親子関係は無いと思われますが、さて困りました。一方では信盛から信重に移っているとしているモノもあるが、正してみれば無理が有る。 こんな時に ちゃんと別系図が存在してました。代々、造酒司と言う官職に就いてたらしい『賀茂在信』と言う人がいます。生年が大体1280年頃。その子供に『松平信盛』がいます。この『信盛』ですと、生年は1300年代と言う事で、何とか『松平信重』と接触する事が出来そうです。この場合の『信盛』の兄弟に『賀茂在久』と言う人がいます。この人の生年は1310年頃とされている様ですから、『松平信盛』も同時期。よって、1310年と言う事で一区切り付けます。この『賀茂在信』の祖父が『賀茂在盛』と言います。この人だと生年は1240年辺りも十分に考えられますから、多分 この辺で歴史記憶の混乱を生んでいるんだと思います。後宇多天皇に仕えていたのは、『信盛』では無く、賀茂氏の『在盛』と言う人物なんだと思います。また、この賀茂氏と言うのは、『陰陽道 安倍晴明』に繋がる子孫とらしく、更に古くはスサノオの尊…まーそんな くだらない話は、どーでもイイです。ソレを言ったら、この一連の徳川ネタも全部作り話ですけど..._| ̄|○ 造酒司と言う事で、賀茂氏自体は代々神主関係だった様です。加茂(鴨)神社なんて名前、聞いた事 有りますよね。神主関係であったと言う事は、時を選ばず天皇に仕えていたと言う可能性も無きにしもあらず。造酒司ですから、祭り事の際は同席していた可能性も高いですね。彼が 地方に流れた理由なら自発の可能性も想像できます。例えば「美味い酒を作る為の米作り」とか…暇があれば 各地の賀茂神社を周ったりしていたが、たまたま三河に寄った時、酒に適した上質の米が見つかって そのまま土着したとか…。くだらない話かも知れませんが、造酒を扱う人にとっては真剣な話ですよね。まだ他にも可能性が有りそうですが、とにかく、天皇にも接触できて、地方も周れると言う融通は利きそうです。『松平信盛』の伝承を踏まえれば、コチラの方が少なからず合理性が有ると思います。むしろ前者の『松平信盛』なる人間ですと、突然 天皇のお傍に仕える事自体無理が有ります。仮に元が『在原氏』だとしても、在原が朝廷に存続できていたのは平安時代前期まで。当時権勢を誇り続けた藤原の本流さえ衰退の一途を辿っていたこの時期に、ましてや その後 突然 地方に流れ、松平郷を開いたとなると公家格の人間と言う事に不自然が生じると思います。公家のヘッピリ腰で開墾なんて想像するだけで笑えます。米作りに精を出していた傍ら三河の神主もしていた、賀茂の おじちゃん…コチラと取りたい所ですね、耕作に精を出す神主さん、中々イイ話ぢゃないですか。ははは…あーぁ;; とりあえず自然不自然&可能不可能の加減からは、後者の方が優勢だと思います。そしてその後、『賀茂在信は2人の子供に一方を神主、一方に土地を与えた』っつー所。本来の職である神主として 在久は三河の賀茂神社の神主家となり、信盛は父の耕していた畑を父に倣って耕し続けた…それが松平郷っつー所でしょうか。だから一方が『賀茂在久』、もう一方が『松平信盛』と言う事なんでしょう。名字の理屈としても合理的。松平郷は元々ソコに有った地名と考えた方が良さそうです。この地での館の建設は、元々ソコに有った建物を『松平信盛』が接収したか、改築したか。松平郷を松平の名字を冠して引き継いだのが『松平信盛』であり、だから『松平館』であり、だから『松平信盛』は 松平氏の始祖なんだと思います。お父さんは神官と農民を平行していた訳で賀茂姓のままでしたから。ですから『松平の始祖は松平信盛』と言いたくなるのも理に適いますね。ついでにコレなら『松平館』の建築年は1330年以前であれば、いつでも構わない事になります。改築を『松平信盛』が やったんですから、耐用年数的に見て1300年以前と考えるのが普通です。よって、弘安年間に建てられたと言う年代矛盾にも対応出来る様になると思います。他の伝承についても、史実が 仮にコレなら、許容範囲だと思われます。 な訳で、とりあえずココまでの簡単な年表でも作ってみます。
それと、今までの部分を整理してみます。
ここまでで、松平氏始祖からの下りと松平氏側の上りの間が、ある程度限定出来るようになりました。その部分が松平氏で信憑性の薄い、初代松平親氏と 二代松平泰親が存在するグレーゾーンとなります。彼らが確実に松平氏の初代&二代だと言う事を前提とした上で、今迄の件から『松平信重 生年の1340年-1360年〜松平信光 生年の1404年の間』。で、コレを更に狭めます。先程の伝承からも『信重』が産まれた時分に、『徳阿弥』を歌会とやらに参加させて 娘を娶らせたと言う想定には無理が有ります。よって、信重側を20年上乗せ(1340〜1360→1360〜1380年)、また、『松平信光』の生年が1404ですから、父親となるであろう松平泰親の位置を考慮しなければなりません。よって、それも信光側を20年遡ります(1404→1380年)。よって、1360年-1380年〜1380年の間に『松平親氏』と『松平泰親』の2人の生年が置かれると言う話になります。 …最悪、産まれた直後に産まれる親子関係です。無理ですね。1360年に松平親氏が、1380年に松平泰親が…と言う想定も有りますが、世代設定を最低の20年としている以上、ギリギリを求めるのは無理が生じます。信重が1360年産まれならアウトですし、松平信重が仮に1340年産まれだとすれば、その先代・先々代も20歳平均で子供が産まれている事が絶対的条件と言う大前提が必要です。ですから、1340年より ずっと後の可能性が高い訳であり、むしろ信重が1360年頃に産まれ、1380年頃に信重の娘が産まれ、松平親氏が婚姻し子供を産んでいる…と言う方を押したいと思います。算数の計算で単純に考えてはならない訳で、結局かなり高い確率で『松平親氏』と『松平泰親』の2世代は、親子関係として この間に入る事は出来ないと思います。まぁ、それも可能性の話でしかありませんけど。通常で考えた上でと言う事を考慮して、上記のポイントに、もう一つ加えますね。 ・『松平親氏』と『松平泰親』に、親子関係は無い。 別の可能性として否めないのは、この二人の兄弟説と言うヤツです。結構 この伝承は存在するみたいですし、私も ある種この可能性は考えられると思います。それから、もう一つ…松平氏に婿入りする以前に泰親と言う子供が既にいたと言う説。つまり、親氏と養父の信重は同世代に近い関係と考える事になりますね。ただ、コレは如何なモノかと思います。現代の感覚なら可能性も無きにしもですが、現代感は排除すべきだと思います。ましてや 田舎と言うのは、現在でも そーですが、体裁を重んじる所って有ると思います。果たして、どんなに歌が上手で 武芸に秀でた人で 魅力を多分に持っていた人間だったとしても、自分と同程度の年齢の子持ち男に娘を娶らせるなんて事をするだろうか?っつー いわゆる普通の感覚ですね。そんな事なら、多少魅力は落ちても松平郷で働いていた独身の若い男に娶らせると思いますし、そもそも先程書いた伝承では完全に親氏は『よそ者』です。田舎モノは よそ者に厳しいんですよ。そー易々と打ち解けて名主の娘を娶れるなんて、そんな話は都合が良すぎると思いませんか?ちょっと強引過ぎますよね。と言う事で、コレは考えない方が良いと思います。 では、この2人が親子で無いとするならば、とどのつまり どちらかが信光の父親であり、どちらかが少なくとも直系関係には いないと言う事になります。さて…どちらなんでしょうね?今の所 どっちが父親なのかを限定するには、今迄の話では材料が少なすぎますし、一気に結論を出すと滅茶苦茶な解釈を起こしますので、ココで ちょっと、別の話に切り替えますね。 |